勇士の23年間




 
このページでは、息子(上段 勇士)の事を知っていただければと思い、生い立ち、そして生きてきた23年間を簡単に紹介します。
◎ 誕生

1975年(昭和50年)11月19日体重3,850gで生まれました。

このころよく言われた言葉は「丈夫そうなお子さんね」決して「かわいい」とかではありませんでした。(苦笑)

おとなしい子で、あまり泣きじゃくることはなかったのですが、写真のように、おんぶすると背中でよく反り返っていました。
おかげでよく腰を痛めてしまいました。

◎ 3人兄弟

勇士は3人兄弟の真ん中でした。
兄弟は互いに1〜2歳違いなので、良くも悪くも、いつも3人でつるんでいました。食事やおやつなどは競い合って食べていました。(笑)

この当時、3人とも良くはまっていたのが、TVの特撮ヒーローものです。
仮面ライダー、ゴレンジャー、etc.
特に仮面ライダーシリーズが好きだったようで、その週の放送が終わると、3人で泣いていました。
とにかく、「強い男」にあこがれていました。

(左から 長男、三男、次男。一番右が勇士です。)

◎ 女の子!??


保育園の年長〜小学校低学年にかけて、ちょっと美意識に目覚めたのかロングに。。。

とても髪の毛を大切にしていました。お陰でぱっと見女の子に。

しかし、見た目は優しそうでも、あくまでも目標は「強い・最強の男」!このころからプロレスが好きで「足四の字固め」を家で掛け合っていました。

また、学童保育で、独楽・羽根突きに夢中になり、一生懸命やっていました。

 

◎ 小学校時代


高学年の頃に、陸上競技に夢中になり、先頭になることが目標に。

それと平行して、自主トレに熱を入れ、独自の工夫をはじめました。

本人曰く「筋肉の動きがおもしろい」らしく、体づくりに関することに熱心になり、食事にも興味を持って、料理を作るようになりました。時たま、自信作ができると、「ホテルのコックさんになるのもいいなぁ」と、はにかんだりしていました。


(写真右が勇士です。)

◎ 突然の。。。


中学生になり、勉強が細分化されたせいか、私も気づかないうちに、理科・数学が得意を通り越して、大好きというか趣味に。
毎日、得意満面な笑顔で、理数系の解説をしてくれていました。
私は理数系ではないので、いつも「へぇ〜」と関心するばかりでした。

(写真真ん中が勇士です。)
陸上にも引き続き力を注いでいて、リレー・ハードル・400m走をはじめ、長距離・砲丸投げと、実にいろいろ取り組んでいたようです。
自主トレもさらに活発になり、毎朝5時に起きて、近くの河原や公園を走ったり、部活から帰ってきても、お風呂前には必ず自分の決めた筋力トレーニングをしていました。
このころから、ジャッキー・チェンやブルース・リーといった、いわゆる「やせマッチョ」といった感じの、引き締まった均整のとれた体が目標でした。

中学時代で、私がとても印象に残っているのは、何といっても卒業式です。
当時通っていた中学校では、卒業式の直後、付近の公園で卒業生と在校生が集まり、自由にたむろして、夕方まで楽しく語ったり遊んだりするといった習慣があったのですが、この日、勇士は夜遅くまでその公園で友人たちと一緒にいたようです。
帰ってくると、ボタンが一つもない学生服を、恥ずかしそうに着ていて、「くださいって言われたんだ」と、女生徒にボタンを全てあげたんだそうです。
そのときのうれしはずかし顔は忘れられませんでした。

どなたか知りませんが、ほんと、良い思い出をありがとうございました。(笑)
◎ 高専(都立航空高専)・都立大学時代


「高専」という学校の存在を知ったのは、勇士が中学2年の冬のときでした。
理数系が大好きだった勇士が、自分であれこれ参考書や案内書を読んで、私に「ここに行きたいんだ」と主張したとき、正直びっくりしてしまいました。
高専に進んでからの勇士は、朝から晩まで理工学一色になりました。

毎日、いろいろ興味のわくことがあったようで、本当に楽しそうでした。

家の本棚には、漫画はなく、学校で使う理工学書だらけ。

そして、それに負けじ劣らず、筋力トレーニングや格闘技、スポーツの本が並んでいました。
このころも相変わらず体づくりは欠かさず行っていて、良く鏡の前で、トレーニングの成果を確かめるようにポーズを取ったりしていました。

高専を卒業し、都立大学の3年に進んでからは、ますます理工学にのめり込んでいったようで、海外の理工学雑誌なども読み始め、『アメリカ留学』を本気で考えるようになりました。

 

◎ 大学中退、そして(株)ネクスターへの就職

(株)ニコン熊谷製作所勤務

理工学の探求、そしてアメリカ留学の実現に向けて、勇士は、大学を中退し、お金を貯める為に、親元を離れ、就職をしました。
それが、(株)ネクスターへの就職でした。

平成9年10月27日から、(株)ニコン熊谷製作所で、ステッパーの検査作業につき、クリーンルーム内での2交替勤務が始まりました。
勤めはじめてからしばらくして、勇士は度々電話で、体の不調を訴えるようになりました。


裁判資料としても現在提出中ですが、簡単に要約すると経過は以下の通りでした。

 

・ 夜12時に昼ご飯をとるような生活に。胃痛と腹痛がはじまる。
・ 痩せ始める。慢性疲労を感じるようになり、不眠に。
・ 苛立ちが目立つように。勉学能力・記憶力の低下を感じる。
・ 激痩せが定着。味覚、臭覚が鈍くなってくる。
「昼夜って感覚がないんだよね、時差ぼけってこんな感じかなぁ」
・ 口の渇き、手腕のしびれが日常的に。ぼんやりし出す。
・ 13kgも体重が激減。筋力も衰えて、頬がこけた状態に。
「理科(高校1年)の簡単な問題も解けなくなってしまった。。。」
※ 「もう辞める」と退職を決意する。
・ 退職の返事がなかなかもらえなかった。
・ 私(母)からの電話での連絡が通じなくなり、突然の出張かと心配するようになった。
◎ 推定命日

上記のような状態でいた勇士を心配していた矢先、平成11年3月10日、熊谷警察署から『自宅で自殺』との連絡を受けました。
推定命日は3月5日。銀行ATMの引き落とし記録や、買い物のレシートから判断されました。
この推定命日の翌日は、私(母親)の誕生日でした。。。

自宅には、買ったばかりのきれいなパソコンの横に、小説『アルジャーノンに花束を』の最後部分にしおりが挟まれたまま置いてあり、トレーニングメニューを書くために使っていたホワイトボードには、ただ一言『無駄な時間を過ごした』と記されていました。