労働基準監督署の活用法 (3/5 一部改訂)
1. 従業員は「取引先」−労務コンプライアンスの重要性と必要性
(1) 労務コンプライアンス欠落の背景
賃金不払残業,労働者災害,不法解雇やセクシュァル・ハラスメント。これらは,全て労働の現場で起こりうる事件です。しかし,これらの事件には共通点があり,それは「『労働法違反』が関わっていること」です。たとえば,賃金不払残業(いわゆるサービス残業)は労働基準法違反ですし,労働者災害には必ずといっていいくらい労働安全衛生法違反が関係します。
労働基準法違反や労働安全衛生法違反は犯罪であり,労務コンプライアンス(労働における法令遵守)の欠落を意味しています。この原因には,「赤信号,みんなで渡ればナントヤラ」といった感覚が原因となっているように思われます。しかし,これにはもっと重大な認識の欠落が原因となっています。
(2) 会社は従業員のもの・従業員は取引先
それは,「会社は,従業員のものである。」「従業員は,取引先である。」という前提意識です。このようなことを申し上げる人はあまりいないのかもしれませんが,実は対顧客以上に対従業員の関係は重要です。ところが,私の知る限りそのような前提認識をしっかりと理解・実践している経営者はいません。たとえば,元従業員から民事訴訟で訴えられた経営者が「飼い犬に手を噛まれた」などと周囲に愚痴をこぼすことがあるようですが,まさにこのことが先ほど申し上げた前提意識の欠落を物語っているのです。
そもそも,従業員は,経営者の家臣・家来・召使い・奴隷や番犬(飼い犬)ではありません。企業は従業員と取引をして利益を得ているわけですから,むしろ従業員との取引によって生かされているのです。ですから,経営者の仕事は,従業員が安心・安全・快適に職務に専念する環境をつくり,従業員の幸福の最大化を実現することです。その前提となるべき考え方が「会社は,従業員のものである。」「従業員は,取引先である。」であり,労務コンプライアンスはその手段です。
(3) 顧客より(元)従業員・求職者のほうがコワい!?
ほとんどの企業は顧客(お客様)からのクレームに適切に対処していると思いますが,(元)従業員や求職者からのクレームに真摯に対応している企業は私の知る限りありません。しかし,このような対応は,的外れだと思います。なぜならば,従業員・求職者が顧客・取引先になる可能性があるからです。仮に,直接の顧客・取引先にならなくても,近親者や知人が顧客・取引先になるかもしれません。ここで言う「取引先」とは,直接に取引をする相手方にとどまりません。退職した従業員や以前に申し込んだ求職者が就職した取引先の会社も当然「取引先」ですし,同業他社も「取引先」に含まれます。いずれにしても,元従業員や求職者から情報が口伝され,組織の対外的信用が落ちることが考えられます。しかも,(元)従業員・求職者は「一見さん」ですので,一度悪印象を持たれてしまうと二度とそれを回復することはできません。
(元)従業員とトラブルになることは,計り知れないダメージにつながる可能性もあります。たとえば,(元)従業員がメディアや行政庁に組織の不正を内部告発する可能性があります。提供された情報は,その従業員が実際に見聞し体験したものですから,裏づけと説得力があります。このような情報が内部告発を通じて「一人歩き」すれば,社会の組織に対する信用度が落ちることは必至です。また,元従業員から解雇無効の確認を求める民事訴訟を提起されれば,経営者はその対応を余儀なくされます。弁護士に委任するとしても当然弁護士費用を負担しなければなりませんし,敗訴すれば賃金補償や慰謝料の支払いをしなければなりません。また,報道等を通じて社会の組織に対する印象が悪化する不利益もあります。
「一寸先は闇」と言われますが,対応を誤れば組織の存亡にかかわる危機を迎えるかもしれません。このような「リスク」を回避するためにも,労務コンプライアンスは重要です。
今回は,労務コンプライアンスの醸成のための労働基準監督署活用法を実例を交えながら紹介します。
2. 労働基準監督署が突然やってきた!
(事例1)木枯らし吹き荒れる2月のある日,金属加工を業としているA社に突然甲労働基準監督署の労働基準監督官3名が抜き打ち臨検と称してやってきた!どのように対処したらいいのでしょうか。
(1) 労働基準監督署は,労働法関係の警察
ところで,「労働基準監督署」と聞いても,どのようなことをしている役所かわからない人が多いのではないでしょうか。労働基準監督署は,簡単に言えば,労働法関係の警察です。つまり,労働基準監督署は,労働法違反(ただし,法律によっては対象としていないものもあります。)を取り締まっています。もちろん,それ以外にも労働保険の徴収事務,個別労働紛争解決促進法に基づくあっせん申請の受付や労働相談もしています。
労働基準監督官は国家公務員で,普段は行政官として勤務しています。しかし,特別司法警察員としての職務権限も付与されています。時々「残業代不払いで書類送検された」という報道を耳にしますが,労働基準監督官は警察官と同じように犯罪の捜査や被疑者の逮捕をすることができるのです。」
(2) 突然やってくるかもしれない労働基準監督署
では,労働基準監督署は,どのようにして労働法違反を取り締まるのでしょうか。
労働基準監督署が取締りに乗り出す原因は,二通りあります。それは,定期臨検と抜き打ち臨検です。
定期臨検は,一般的に予告してから実施されます。これは,過去に申告があり違反が確認された事業場や強化月間の対象事業場を中心に実施されます。こちらは事前の予告のうえでの定期的な見回りですから,経営者はあまり神経質になりません。
先ほどの事例1のように,抜き打ち臨検は,文字通り事前の予告なしで突然実施されます。これは,違反申告(労働基準法第104条・労働安全衛生法第97条)があった場合に実施されますから,経営者はかなり神経質になります。
抜き打ち臨検は私たち労働者が労働基準監督署に足を運んで相談した後に実施される場合がほとんどですので,私たちが職場における労務コンプライアンスを保全し高めるには,これを利活用します。
3. 違反申告は経営者に対する労働者のクレーム手段
(1) どのようにクレームするの?
利活用すると言っても,どのようにすればいいのでしょうか。先ほど違反申告の話を出しましたが,聞き慣れない言葉だと思います。この存在を知っている人は,過去にやったことがある人か業界関係人くらいではないでしょうか。
違反申告とは,その事業場に存在している(であろう)労働基準法違反,労働安全衛生法違反や最低賃金法違反を所轄労働基準監督署長又は労働基準監督官に口頭又は文書で申告することです。
たとえば,ある事業場で法定労働時間を超えて従業員を労働させているにもかかわらずその時間に対する賃金が支払われていない場合,このことを所轄労働基準監督署長(労働基準監督官)に申告し,その是正を求めることができます。しかし,ただ何も考えずに申告をすると,申告した人が誰であるか経営者にバレてしまい,その後解雇や賃下げ等の不利益を受ける可能性があります(ただし,申告をしたことを理由として解雇等の不利益取扱いをすることは禁止されている。)。そこで,法は直接に規定していませんが,「匿名申告」をするのです。匿名といっても,労働基準監督署に対しても匿名とするのではなく,労働基準監督署に対しては氏名等を開示し,対経営者との関係では匿名での申告があったものとして扱ってもらうのです。申告時にこのように申し出ておけば,誰が申告したかを明らかにせずに対応してくれます。
違反申告前のことを申し上げます。違反申告をする場合,できれば単独で秘密裏に動くことをおすすめします。たとえ,協力を申し出る人がいても,安易に信用してその内容をつまびらかにするのは危険です。経営者にそのことが伝わる可能性があるからです。申告内容や行動が経営者にバレると,証拠隠しや証拠隠滅(改ざんや破棄)を図り,又は解雇等の強硬手段に出ることが予想されますから,密行性を完全に確保してから実施してください。動きがわかって改善する経営者もいるのかもしれませんが,そのような経営者はまずいないと考えてください。改善するくらいならば,最初から違法行為に手を染めないはずです。
違反申告は,できれば「書面」ですることをおすすめします。書面を予め作成しておけば要点もハッキリしますし,来署した時の相談時間を短縮することができます。もちろん,口頭でも申告できますが,言い方によっては単なる相談として取り扱われてしまう危険性もあります。書面を作成しない場合は,必ず「労働基準法等に基づく違反申告に来た」ことを確実に告げてください。また,先ほど申し上げた抜き打ち臨検の実施を求める場合も,そのことを書面に明記し,口頭の場合もそのことを申し伝えてください。
ただし,口頭又は書面いずれかを問わず,必ず証拠物(タイムカード,源泉徴収票,業務報告書,給与明細書や関連しそうな張り紙やメールのアウトプット等)を持参してください。証拠物を持参すれば,事実認定にも時間を要しませんし,労働基準監督署も動きやすくなります。なお,録音テープ等の録音媒体の場合は,録音複製物とともに,反訳書面(録音媒体を紙に起こして証拠化したもの)をつけるようにしてください。
(2) クレームをする時の注意点
先ほども申し上げましたように,他人に漏れ伝わらないように最大限注意を払ってください。たとえ近親者であっても絶対に話さないくらいの腹積もりが必要です。
また,只今申し上げた違反申告は,法令違反に伴うものが対象です。従って,法令違反にかかわらないものは原則として対象になりませんので,注意してください。たとえば,有期労働契約の場合使用者は契約更新の有無や更新がある場合の更新事由を明示しなければなりませんが,これは労働基準法違反ではありません。ただし,通達や告示に違反している場合でも申告は可能ですし,違反事実が確認されれば労働基準監督署(官)は使用者に対して指導票の交付により行政指導します。
(3) クレーム後の対応
労働基準監督署に違反申告後は,いつもどおりにしていてください。申告後においても,自分以外の第三者に申告のことを話すのは危険です。この話題を持ち出さず,黙っているのがもっとも無難な対応です。これは,臨検実施後も同じです。
なお,時々「犯人探し」をする経営者がいますが,この場合もいつもどおりの対応をしてください。「犯人探し」が何度も行われる場合,執拗にクレームについて問い質される場合やクレームによる不利益があった場合は,その経過状況や発言内容等を録音するか,又は自分でノート等に記録しておいてください。」行き過ぎる行為は,経営者の当該従業員に対する不法行為(民法第709条・民法第710条)にあたります。
(4) クレームしても改善されない場合
臨検が実施され,是正勧告が発せられたにもかかわらず,改善の形跡が見られないということもあります。このような場合の対処法は難しいのですが,労働基準監督署以外へのアクセスを検討する必要があります。
改善形跡が見られないとして労働基準監督署へ再申告することも可能ですが,何度か実施すると経営者側が感づいて証拠隠滅を図り,又は申告者を炙り出して「報復措置」を仕掛けてくる可能性がありますので,慎重になってください。
一つの方法として,企業内労働組合があればその組合に相談してみるといいでしょう。企業内労働組合がなければ,誰でも入れるユニオン(一般労働組合)に相談することもできます。労働組合介入が契機となり,一気に解決が図られる場合もありますので,あきらめずに対処しつづけてください。
(5) 求職活動にも活かせる労働基準監督署
(事例2)求職者Bさんは,X社がハローワークで出している一般事務職に応募しました。その翌日Bさんは,求職のためにX社を訪問し,同社の代表取締役Yさんと面会しました。その時,Yさんから,「うちの会社は残業しても残業代の支払いはないから。あと,有給も認めないから,そこのところよろしく。」との説明を受けました。このような説明は法に違反していると思うのですが,どうしたらいいでしょうか?
労働基準監督署は労働契約関係の存在が前提となっている場合のみに乗り出すように思われますが,実は契約関係が存在していなくとも利活用できます。
先ほどの事例2で言えば,「どんなに残業しても残業代の支払いはない」「有給も認めない」という説明は労働基準法違反にあたります。しかし,その事実が本当かどうかはわかりません。
このような場合,違反申告に準じた「情報提供」を利活用することができます。ただし,情報提供は違反申告と違い法定されている権利行使ではありませんので,労働基準監督署(官)が動いてくれるかどうかはわかりません(情報提供の場合職務権限の行使義務がない。)。しかし,実際に面会したうえでの説明はそのような事実を推認させますので,その後の参考になるでしょう。また,その後違反申告があれば抜き打ち臨検の呼び水になりますし,悪質な場合は情報提供を根拠に労働基準監督署(官)が抜き打ち臨検に乗り出す場合もあります。
4. 抜き打ち臨検・是正勧告を受けた経営者の皆さんへ−顧客のクレーム対応と同じように
(事例3)乙労働基準監督署から抜き打ち臨検と労働基準法違反・労働安全衛生法違反に対する是正勧告を受けたC社は,以前に解雇した元従業員Pから解雇無効確認訴訟を提起されました。原告Pは,当該訴訟において,「被告C社は,労働契約時に書面で労働条件を通知しなかったばかりでなく,原告に就業規則の存在すら教えなかった。被告C社が解雇の根拠と主張している同社の就業規則は,周知されていないから無効である。」と主張しました。そのうえで原告Pは,乙労働基準監督署が作成した是正勧告書(控)とC社が乙労働基準監督署に提出した是正報告書を書証として提出しました。ところが,被告C社は,「就業規則は鍵のかけられていないロッカーに入れて周知していた」などと幾度となく抗弁しました。
(事例4)Q社は,丙労働基準監督署から抜き打ち臨検と労働基準法違反・労働安全衛生法違反に対する是正勧告を受けました。1週間後Q社は,是正勧告を受けて丙労働基準監督署に是正報告をしました。その後,元従業員がQ社を相手取って支払われていない残業代の支払いを求める労働審判を裁判所に申し立てました。併せて,是正勧告を受けたにもかかわらず残業代を支払おうとしないQ社と代表取締役Dを労働基準法違反容疑で丙労働基準監督署に告訴しました。
労働審判と丙労働基準監督署の取調べにおいて,Q社は,「原告(告訴人)が勝手に残業したので,支払義務はない。」などと抗弁しました。また,Q社は自己申告による業務報告書により労働時間を管理していましたが,労働審判では「会社に楯突く原告が作成した業務報告書に信用性がないのは明らかである」などと主張しました。
抜き打ち臨検・是正勧告(指導)を受けた経営者の皆さんにとっては,苦々しい想いをお持ちのことでしょう。しかし,これをどのように受け止めて活かすかによって,その後の組織のあり方は大きく変わります。
経営者の皆さんは,抜き打ち臨検・是正勧告(行政指導)を「労働者からのクレーム」として厳粛に受け止めるべきです。すなわち,会社が提供したサービスや販売した商品に欠陥がありそのことが原因となってのクレームと同じように対処するということです。
実は,違反申告もクレームの一種と捉えることができます。その違いは,クレームの主体とクレームの手段(プロセス)に過ぎません。抜き打ち臨検と是正勧告という従業員(労働者)からのクレームがあった場合,前記の事例3・事例4のような対応をしてはいけません。このような対応は,クレームを受けた会社がクレーム主に言い訳をし,クレーム主に楯突いているのと同じことです。特に,民事訴訟・労働審判や民事調停(以下,「民事訴訟等」とする。)になった時にそのような対応をすると,後々円満な解決が図られないなどの不利益を受ける可能性があるからです。円満な解決ができないくらいで済めばいいのですが,実際はその程度で済みません。民事訴訟の場合,その内容が訴訟記録として残りますので原告が主張内容を第三者に吹聴することも考えられますし,訴訟資料をホームページ等で公開するかもしれません。利害関係のない第三者が訴訟記録の閲覧を求めた時にその内容が閲覧請求者の与り知るところとなります。これらの行為を通じて,組織の信用は崩壊し,取引先が手を引くなど倒産の危機を迎えるかもしれません。仮に民事訴訟等にならないとしても,このような対応はクレーム主を余計に怒らせて挑発するだけで,何の利益もありません。もちろん,(元)従業員を挑発することになりますし,それにより(元)従業員の組織に対する信頼信用を落とします。
最初に,「会社は,従業員のものである。」「従業員は,取引先である。」という前提意識を申し上げました。相手が(元)従業員であるか顧客であるかは,実は経営者側の都合でしかありません。言い換えれば,組織(会社)という器の中か外かの違いでしかありません。しかし,「従業員は取引先」という認識に立てば,器の内外ですら関係がないことがわかります。しばしば「顧客満足」という言葉を耳にしますが,これを高めるためには「従業員満足」を高めなければなりません。しかし,経営者が従業員を家臣・家来・召使い・奴隷や番犬(飼い犬)扱いしているうちは,従業員満足は高まりません。犯人探し,虚偽報告や申告者に対する不利益行為は,クレームに真摯に対応していないこと・経営者自身が従業員を取引先として向き合っていないことの証左です。別の言い方をすれば,経営のサボタージュです。
5. さいごに
人は,意識の持ち方一つで行動が変わります。違反申告・抜き打ち臨検と是正勧告をありがたい労働者からのクレームと捉えるか,ありがたくない経営者への反逆行為と捉えるかによって,組織のあり方が問われます。また,組織やその後の進む方向が変わります。まずは,従業員と対等で適切な関係を構築することから始めてみてはいかがでしょうか。
従業員・求職者の皆さんも,正しい労働関係法令の知識を持つように心がけましょう。正しい知識がなければ,クレームを発することすらできません。また,その情報を共有することも必要です。情報共有は,労務コンプライアンス確保において有効です。
今回のお話が労働者,求職者や経営者にとって有意義なものとなることを心より願っています。 |