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V陳述書について(※被告側精神科医)
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V陳述書(1)の概要
被告ニコンは、本件に関してV医師の意見書を提出する。V陳述書(1)の要点は以下のとおりである(甲98)。
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原告の陳述の信頼性が大いに疑われる。(「V陳述書(1)」(乙67)、10、12、13、16頁)それにもかかわらず、T.T医師は、原告の話を鵜呑みにしている(同7、8、10頁)ので、前提としている事実が信頼できず、T.T医師の「意見書」も信頼できない。
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(2)
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T.T医師は、うつ病を診断する際に前提となる身体疾患の除外診断をしていない(同3-4頁)。
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診断は、「うつ病エピソード」ではない。むしろ、「気分変調症」であろう(同8頁)。仮に、「うつ病」に罹患していたと仮定したら、平成10年5-7月時点で、「仮面うつ病」として、「うつ病」を発症していたとすべきである(同11頁)。
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執着気質であること、両親の持つ遺伝的素因(父は躁状態の可能性、母は心身症や軽いうつ病の可能性)、生育歴上のトラウマ、「通常と違った金銭感覚」、大学中退歴 など、個体側の要因への検討がなされていない(同4-8頁)。
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「家族責任論」、即ち家族が受診させなかったのが悪い(同9頁)。
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V陳述書(1)の問題点
しかし、V陳述書(1)の問題点は、T.T鑑定書(3)(甲98)に詳細に述べられているが、その概要は以下の通りである。V陳述書の内容はいずれも不適切である。なお、そもそもV陳述書は全て反対尋問を経たものではなく、その信用性は低い。
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(1)
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V陳述書(1)の反科学性
V陳述書は、以下に述べるとおり、医学的知見を無視しており、その内容を採用することはできない。
V陳述書(1)には「夜勤明けに朝方から睡眠を始めるということは、当初慣れないうちは睡眠が浅くなったりする弊害が生じることが多いといえます。しかしながら、この点については、次第に慣れてきて、睡眠の深さも深まるというのが通常です。慣れるのに必要な期間には個人差がありますが、1か月ないし3か月程度であろうと思われます。」と陳述されているが(乙67、25頁)、その陳述には何の根拠も提示されていない。しかも、前述したとおり、夜勤に関する研究では、夜業昼眠生活に対する生体リズムの位相逆転が完全には成立しないことから「夜勤慣れ」が成立しないことが解明されており(甲51、甲84)、V陳述書(1)のような見解は否定されている。
また、V陳述書(1)には「クリーンルーム及びその環境自体がそこで働く人たちの精神状態に悪影響を与えるということを認める研究や調査結果等が発表されたことはありません。」と陳述されている(乙67、29頁)。しかし、これも前述したとおり、最近のクリーンルームと精神疾患との研究においては、両者の関係を認める研究が発表されており(甲70、甲113)、V陳述書(1)は事実に反している。
このように、V医師は、上記の重要な医学的知見について無知であるか、あるいは、被告らに不利とならないように意図的に無視して陳述書を作成していることは明らかであって、その内容を採用することはできない。
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(2)
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原告の陳述の正確性
原告ら勇士の家族の証言の信頼性については、T.T医師が原告と長時間面接した結果と陳述書の内容(甲92においては、「本人尋問調書」も参照している)に関して、十分な一貫性があり、大きな矛盾が無く、一方では適度に記憶の明瞭でないところもあり、自然さがあると評価したものである。原告らの証言には、表面的には「うつ病」と診断するのに不利になるエピソードもわずかに混ざり、恣意的とは考えにくいものであったために、T.T医師はその内容を採用したのである。
また、T.T医師は、客観資料の残っているものは、できるだけ活用している。勤務記録は無論のこと、中学時代の通知表(学習・行動・性格の所見も含む)、都立工業専門学校時代の学業成績通知書(出欠日数も含む、甲57の1〜4)、東京都立大学工学部成績証明書(甲68)、健康診断結果などを、補完的に活用している。
さらに、T.T医師は、自殺例について、遺族から聞き取り調査する際のフォーム・用紙を用いて、「半構造化された面接」の手法(甲96の枠囲みの中の質問が、半構造化面接時の質問項目)によって、家族と面接を行っている。
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(3)
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身体疾患の除外診断
T.T医師は、「意見書」作成にあって、身体疾患の除外する診断過程は当然行っているが、あまりにも当然のことであるので、「意見書」では詳記しなかったに過ぎない。上段勇士氏の生前の身体疾患の存在については、本来は、V医師と被告らが積極的に「○○の身体疾患があった」とか、「脳腫瘍があった」とか証明すべきである。
V医師が提起した、1)胃潰瘍、胃癌、2)亜鉛欠乏症、3)脳腫瘍、4)甲状腺機能障害、5)肝機能障害、腎機能障害の身体疾患については、勇士が罹患していた可能性はない。
なお、V医師は、一方でうつ病の診断のためには、身体疾患が潜んでいるかもしれないから、慎重に身体病・脳器質性疾患を除外すべきだと主張しながら(乙67、4頁)、他方で、健康診断は十分にされており、勇士には身体的「異常は無かった」と言っており(乙67、22頁)、その主張は矛盾している。
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(4)
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体重減少について
V陳述書(1)には、原告は平成9年10月末頃の勇士の体重が65キログラムであるとするが、平成9年12月8日付健康診断書(丙3の1)では60キログラムとなっており、2ヶ月で5キログラムの減少は異常であり何らかの病変があった可能性がある旨が陳述されている(乙67、12頁)。
しかし、そもそも、平成9年12月8日における健康診断での体重測定は、計測後に一律1キログラム、マイナスしたものであった。また、かつ計測人数が多く次々と体重計に上がるなかで、アナログの体重計の針のふれ幅がある中で測定をしたものであり(Cx医師陳述書(甲100))、その測定値には一定の誤差がある可能性も高く、丙3の1をもって、勇士の実際の体重が60キログラムであったと結論付けることは短絡的である。上記の誤差を考慮すると、勇士の当時の実際の体重は60キログラムより数キログラム重かった可能性もある。
また、勇士は、筋肉トレーニングを趣味としており(甲61、4頁。丙27)、トレーニングや意図的な減量の結果、異常ではない範囲で体重の増減があっても何ら不思議ではない。通常人においても、一定の範囲内での体重の変動は特異なことではない。勇士年表(甲97)にも、「学生のころから、トレーニングやカロリーコントロールに気を配っていて、体重を60から65キログラムの間で調整していました。」という記載がある(同1頁)。
そこで、仮に平成9年12月8日における勇士の体重が60キログラムであった(そうでない可能性は前述のとおりであるが)として、勇士の体重の変動が通常範囲内か否かにつき、BMI(Body
Mass Index)を指標として検討すると、平成9年10月末は21.87であり、平成9年12月8日は20.19である。いずれも勇士の体重はBMI18.5から25の間にあり、普通体重の範囲内であった。他方、平成11年10月には、勇士の体重は52キログラム(BMI17.5)まで減少し、通常範囲を逸脱して明らかに「痩せ」て低体重となっている。
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(5)
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気分変調症又は仮面うつ病の診断について
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(a)
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気分変調症
「気分変調症」という精神疾患に該当する可能性があるとするV医師の診断は誤りである。
ICD-10 DCR の診断基準では、気分変調症と診断されるためには、次のA〜Cを完全に満たさないといけない。
「A. 持続的な抑うつ気分、または絶え間なく繰り返す抑うつ気分の期間を、少なくとも2年以上の間認めること。正常な気分が間にあっても、その期間が2-3週間を超えることは稀で、軽躁病のエピソードもない。
B. この2年間の個々のうつ病エピソードは、(反復性うつ病性障害の)軽症うつ病エピソードの診断基準を満たすほどに重症であったり、持続したりすることはほとんどないか、まったくない。
C. いくつかの抑うつ的である期間に、次に示すもの(症状)のうち、少なくとも3項目が存在する。(1)〜(11) (略)」
ところが、勇士の場合、「抑うつ気分」が明確化したのは、平成11年の2月に入ってからのことであり、死亡まで1ヶ月あまりの持続であり(甲61、13-15頁)、「2年以上にわたる抑うつ気分」の存在は証明できない。また、「気分変調症」の診断には、「軽症うつ病エピソード」の診断基準を満たさないことが要件となっているが、勇士には、平成10年11月の時点で、「軽症うつ病エピソード」の診断基準を満たし、平成11年2月には、それより重い「中等症うつ病エピソード」の診断基準さえも満たしている(甲61、8頁)。
以上から、上段勇士氏の状態は、ICD-10 DCR の診断基準の「気分変調症」の必須3項目A〜Cのうち、A、Bの2項目を満たさず、気分変調症と診断できない。
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(b)
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仮面うつ病
「仮面うつ病」は、うつ病の精神症状(抑うつ気分=ゆううつ・気分が沈む、思考運動静止=何をするのもおっくう、快楽行動の消失=何をやってもいつものように楽しくない、焦燥=いらいら感など)の訴えが明確でなく、むしろ全身倦怠とか、頭痛、背部痛、腰痛といった疼痛や、動悸・胸内苦悶などの胸部症状、胃腸の不調感などといった「身体症状を訴えの中心にした病像のうつ病」のことである。つまり、身体症状の仮面を着たうつ病(masked
depression)という語義である。精神科医が丁寧に面接してみると、抑うつ感や思考行動静止や焦燥といった精神症状があり、抗うつ薬の投与などうつ病の治療をすれば軽快するという、「うつ病」の一型である。平成10年5月から7月の状態は、そのように判断することを完全に否定するものではないが、当時の精神症状の存在の確認ができない以上は、二交替制勤務による疲労蓄積状態と診断するほうが妥当である。
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(6)
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個体側要因について
V医師は、1)上段勇士氏が執着気質(=メランコリー親和型性格)であり、「発症の原因」となるということ、2)遺伝的素因論、即ち「父は、…躁状態になって浪費した可能性があり」(これは、父が躁うつ病である可能性があることを示唆している)、「母も、…心身症や軽うつ病に罹患した可能性」を考慮していないこと、3)生育史上の「トラウマ」論、「通常人と違った金銭感覚を備えていたものと推察する」という生育環境性格形成を考慮していないこと、4)大学中退について「個体的要因を判断する上で重要なエピソード」への検討が不十分であること、を挙げている。
しかし、「執着気質」は勤勉な日本人の多くに見られる性格であり特異なものではない。また、うつ病が遺伝するということは精神医学上認められていない。生育史上「トラウマ」を受けたという主張は何の根拠も示されておらず単に憶測に過ぎない。大学中退についても、成績表等から精神病を発症していないと判断されるが、V医師はこれに反証するだけの根拠・証拠を何ら示していない。
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(7)
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家族責任論について |
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(a)
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受診を勧めなかったこと
V陳述書(1)において、「原告は母親として何らかの処置を取るべきだったと思いますし、多くの場合はそのような処置が取られていると思います。」と陳述されている(乙67、9頁)。
原告らが、勇士に受診することを勧めなかったのは、平均的日本人がそうであったように、家族には「うつ病」についての知識がなかったので、受診を勧めるにいたらなかっただけであり、家族の責任とは言い難い。家族は勇士の状態を「疲労蓄積」と考えて、栄養補給に気を配ったり、実家(岩手や東京の)に帰ってきたときは、ゆっくり休ませてやろうと努力していたのである。
勇士の家庭環境は、原告陳述書(甲61)から明らかなように、かなりサポート的な家庭環境にあって、むしろ業務上で発生している様々な勇士の負担をカバーしていたものと考えられる(T.T証言速記録23頁)。
最高裁判所平成12年3月24日判決(民集54巻3号1155頁以下。「電通事件最高裁判決」という)においても、原審の「同居していた両親は、息子の勤務状況や生活状況をほぼ把握していたのであるから、うつ病にり患して自殺に至ることを予見することができ、その状況等を改善する措置を取り得ることができることは明らかであるのに具体的措置を取らなかったのだから、賠償額を決定するにあたって斟酌すべき」旨の判断に対して、最高裁は、「損害は、業務の負担が過重であったために生じたものであるところ、大学を卒業して被告の従業員となり、独立の社会人として自らの意思と判断に基づき被告の業務に従事していたのである。両親は同居していたとはいえ、勤務状況を改善する措置を取り得る立場にあったとは、容易に言うことはできない。」旨判示して、原審の判断には法令解釈を誤った違法があると結論付けている。
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(b)
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自殺後すぐに被告らを訴えなかったこと
災害精神医学一般において、自殺直後は、家族は心理的に相当に混乱するものであることが知られている。むしろ、すぐに訴えていたなら、冷静・理性的すぎて逆に不自然である。家族は、まず「えっどうしてなの?」と訳がわからずに、「私たちが至らなかったからなのだろうか?」など自問自答し、そして「どうして自殺したのか、その理由が知りたい」という少し冷静な気持ちになるまでに、何ヶ月も費やすのが普通である。したがって、勇士の家族が勇士の死後すぐに訴えなかったことは何ら不自然なことではない。
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うつ病の発症と自殺
うつ病患者が自殺行為に及ぶ危険性が高いことは精神医学的常識である。一般論として、うつ病者の自殺率は一般人口の自殺の約35倍と言われており、うつ病の初期及び回復途上に多いことがいわれている(T.T鑑定書(1)(甲60)、21頁)。
うつ病においては、その症状である暗い抑うつ気分の存在とともに将来に対する積極的な展望が不可能となり、本人にとって未来が閉塞されているように感じられ、また、価値意識の低下や激しい不安及び焦燥感等の症状に苦しめられて、希死念慮に捕らわれ、これが高じて自殺念慮に至り、遂には自殺行為につながる場合がある。こうして起るうつ病時の自殺は冷静な判断力の働かない状況下で起る病的自殺であって、本人の責任を問うことは不可能である(プレス工過労自殺事件(長野地裁平成11年3月12日判決)も同旨)。
旧労働省判断指針も「うつ病や重度ストレス反応等の精神障害では、病態として自殺念慮が出現する蓋然性が高いとされていることから、業務による心理的負荷によってこれらの精神障害が発病したと認められるものが自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、または自殺を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺されたものと推定し、業務起因性を認めることとする」と述べている。
前述の通り勇士はうつ病を発症しており、勇士の自殺は、うつ病によるものであって、その自殺行為は同人の健全な自由意志を超えた病的心理状態下になされたものである。
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