『控訴審・判決全文』


―判決(50頁・後5行〜60頁)―


(4) 一審被告ニコンの安全配慮義務違反
勇士は、一審被告ニコンが管理する設備、工具等を用いてその業務を行い、事実上一審被告ニコンの指揮命令を受けて稼働し、その作業内容も一審被告ニコン従業員とほとんど同じであったから、一審被告ニコンは、勇士との間に特別な社会的接触の関係に入ったものであり、信義則上、勇士に対し、その心身の健康を損なうことがないよう注意する安全配慮義務を負っていた(最高裁平成3年4月11日第二小法廷判決・民集54巻3号1155頁、最高裁平成12年3月24日第一小法廷判決・集民162号295頁参照)。
 しかし、一審被告ニコンは、この義務に違反した。一審被告ニコンの負う安全配慮義務及びその違反の具体的内容については、一審被告ニコンの被用者及び一審被告ニコン自体の注意義務違反として主張した注意義務及びその違反の具体的内容と同様である。しかも、一審被告らは、実態は労働者派遣であるにもかかわらず、形式上名目上は業務請負契約に基づくものとして勇士を熊谷製作所において勤務させた(一審被告らの間には、双方が署名押印した契約書すら存在しない。また、勇士を指揮監督していたのはST及びKKであったことは既に主張したとおりである。)。このような違法派遣の結果、派遣先事業主である一審被告ニコンの事業主としての責任(労働者派遣法44条ないし47条の2参照)があいまいにされたため、勇士は、適切な労務及び健康の管理を受けることができず、健康を害しついには命を失ったのであるから、一審被告ニコンの安全衛生配慮義務違反の程度は一層重大というべきである。
 よって、一審被告ニコンは、勇士の死亡について安全配慮義務違反の債務不履行責任を負う。

(5) 一審被告アテストの安全配慮義務違反
  一審被告アテストは、使用者として、その従業員である勇士に対し、業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して勇士の心身の健康を損なうことがないよう注意する安全配慮義務を負っていた。
 しかし、一審被告アテストは、この義務に反した。一審被告アテストの負う安全配慮義務及びその違反の具体的内容については、一審被告アテストの被用者及び一審被告アテスト自体の注意義務違反として主張した注意義務及びその違反の具体的内容と同様である。よって、一審被告アテストは、勇士の死亡について安全配慮義務違反の債務不履行責任を負う。

(6) 一審被告らの予見可能性及び結果回避可能性
ア 一審被告アテストは、勇士がうつ病にり患している客観的兆候がなかったとして予見可能性がなかったと主張している。また、一審被告ニコンは、一見明らかに過重な労働条件、労働環境と認定できる事案ではない本件において、予見可能性があるというには、会社又は上司が労働者が健康を害しつつあることを認識し又は認識し得たという事実関係が必要であると主張している。
 
イ しかし、事前に使用者側が労働者の健康状態の悪化を具体的に認識することが困難であったとしても、直ちに予見可能性がなかったとはいえないのであって、必ずしも生命や健康に対する障害の性質、程度及び発症頻度まで具体的に認識する必要はなく、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的危ぐがあれば足り、労働実態や就労環境等に照らし労働者の健康状態が悪化するおそれがあることを認識し得たというような場合には、結果の予見可能性があるというべきである。
 ST及びKKは、平成9年10月以降、熊谷製作所で勇士を指揮監督下においてステッパーの検査に従事させ、同月から平成11年3月に勇士が死亡するまで、その労働実態を把握し、また、その就労環境についても認識していた。加えて、STは安全衛生管理者として、KKは安全衛生補導者として、勇士を含む部下の労働安全衛生に責任を負い、部下の労働が健康に与える影響についての知見を有するか、有すべき立場にあった。

 ウ そして、ST及びKKは、平成9年12月15日に勇士に対し過重な交替制勤務を開始させたから、この時点で勇士がその業務により健康を悪化させるおそれがあることを容易に認識することができたのであり、遅くとも、9日間連続勤務をさせ月103時間に達する時間外労働となった平成10年7月20日から28日ころまでの時点で、その業務による勇士の健康が悪化するおそれを容易に認識することができた。
 さらにSNは、平成11年1月には、勇士が大分疲れていることを認識していたところ、ST及びKKとしては、自らの指揮監督下で働かせている勇士に関して、派遣元である一審被告アテストの担当者であるSNとの間で緊密に連絡を取りその健康に関する情報を把握すべきであったから、同月の時点で勇士の体調が悪化していることを容易に認識することができた。
 加えて、一審被告ニコンらは、深夜業労働者に関し使用者に義務付けられて6か月ごとの健康診断を実施していない。これを実施していれば、平成10年秋から平成11年2月までの段階で、勇士の体重減少を発見し、また、問診等によりその健康悪化を把握することが十分に可能であった。
 加えてさらに、勇士は、平成11年2月26日には無断欠勤をしているところ、ST及びKKは、この無断欠勤を勇士の健康の異常を示す兆候として認識し又は認識することが可能であった。

ウ 以上のように、ST及びKKは、遅くとも平成10年7月28日ころまでの時点でその業務により勇士の健康が悪化するおそれがあることを認識できたのであり、ST及びKKが勇士に対し、時間外労働や休日労働を指示しないように配慮したり、交替制勤務を改めるなど健康悪化の原因となる労働実態を改善する措置を講じたりすることができ、そうすれば、勇士の心身の健康を保持し、うつ病の発症及び悪化を回避することができた。ST及びKKに予見可能性及び結果回避可能性があったことは明らかであり、一審被告ニコンについても同様である。
 また、SNが勇士の健康悪化を認識した平成11年1月には、勇士の勤務を軽減し又は休養を与えることによって、勇士の健康の一層の悪化を阻止し、その自殺を回避することが可能であった。

エ 他方、SHは平成9年12月以降(SNは平成10年12月以降)、勇士の労働時間等の勤務状況について一審被告ニコンより報告を受けて、勇士の労働実態を把握していた。したがって、勇士が交替制勤務を始めた平成9年12月の時点で、遅くとも平成10年7月28日ころまでの時点で、勇士の健康悪化及びうつ病発症に対する予見が可能であり、うつ病発症の結果としての自殺に対する予見可能性も存在した。そして、SH及びSNは、勇士の直接雇用主として、一審被告ニコンに対し勇士の過重労働を止めさせるよう働き掛けるなどの措置を講じて勇士の死亡を回避することが可能であった。
 さらに、SNは、平成11年1月及び2月に、勇士の体調が悪化していることを直接目撃しており、この点から、SNひいては一審被告アテストに予見可能性及び結果回避可能性があったことが明白である。
 加えて、SNは、同月23日及び24日に、勇士から退職の意思表示を受け、かつ、同月26日以降勇士が無断欠勤したことを知り得たのであり、これらの事実から勇士の心身の変調を認識できた可能性が高い。この点からも、SNひいては一審被告アテストの予見可能性及び結果回避可能性は明白である。

(7) 一審被告らの責任の関係
  一審被告ら又はその被用者の行為がそれぞれ不法行為又は債務不履行の要件を充足していることは明白であり、また、一審被告らは、実質的には労働者派遣契約である業務請負契約を締結し、勇士の採用、従事する業務の決定、その後の指揮監督等を社会通念上共同して行っていたから、両者間には共同不法行為が成立する。
 また、民法719条は不法行為に関する規定であるが、安全配慮義務違反の債務不履行に基づき損害賠償請求をする場合、不法行為の場合の注意義務と安全配慮義務の内容が異なるものではない以上、同条が準用又は類推適用されるべきである。

(一審被告ニコン)
(1)ア 一審被告ニコンは、熊谷製作所において、次のような安全衛生管理を行っていた。
(ア) 安全管理態勢
a 一審被告ニコンは、総括安全衛生管理者、安全管理者及び衛生管理者を任命し、安全衛生確保、安全衛生教育、健康の管理及び保持増進、労働災害の原因調査及び再発防止、快適な職場の形成等の業務を組織的に行っていた。

b また、一審被告ニコンは、産業医を1名選任し、健康診断の実施及びそれに基づく健康保持、作業環境の維持管理、作業の管理、健康教育及び健康相談、労働衛生教育、健康障害の原因調査及び再発防止等の業務を行っていた。

c さらに、一審被告ニコンは、主任安全衛生管理者を任命し、安全衛生教育の立案及び実施、災害及び疾病に対する調査及び措置、災害及び疾病の統計及び記録の作成、安全衛生施設及び保護具の点検整備並びに快適職場の形成その他安全衛生及び健康の保持増進に関する業務を行っていた。

d 一審被告ニコンは、各部門、各課ごとに部安全衛生管理者、課安全衛生管理者、安全衛生補導者及び安全衛生担当者を任命し、安全衛生管理を実施していた。

e 一審被告ニコンは、総括安全衛生管理者を委員長とし、安全管理者、衛生管理者、産業医、主任安全衛生管理者等を会社代表委員とし、労働組合から推薦された者を従業員代表委員として、安全衛生委員会を設置し、熊谷製作所の安全衛生に関する諸問題を毎月1回の開催で調査・審議していた。

(イ) 安全衛生活動
a 一審被告ニコンは、年度ごとに安全衛生活動計画を策定し、安全衛生に関する活動を行っていた(乙16の1・2)

b 一審被告ニコンは、職場の管理者に対し安全衛生に関する「安全衛生職場チェックリスト」(乙17)を配布し、また、精神衛生面に関して年1回メンタルヘルスを含めた安全衛生研修会を実施し、従業員や作業員に対する安全衛生について周知徹底していた。

c 一審被告ニコンは、その従業員に対し年2回春期及び秋期に定期健康診断を実施しており、その検査項目は、体重測定、尿検査、視力・聴力検査、血圧検査、胸部X線検査、医師による問診及び打聴診等であり、作業に問題があるような異常が認められる場合には職場に連絡されることになっていた。
 さらに、交替制勤務に従事する従業員には、上記定期健康診断とは別に従事する際の健康診断を行っていた。

d 熊谷製作所に設けられた診療所は、平日の午後2時から午後4時までには医師及び看護婦が常勤し、それ以外の平日の昼間並びに土曜及び祝日の昼間には看護婦が常駐しており、随時、健康診断や診察を受け入れる体制が採られていた。この診療所の利用は、原則として、一審被告ニコン従業員をはじめとするニコン健康保険組合加入者としていたが、緊急の場合はそれ以外の者も受診できるとされており、実際に請負作業者等も利用していた。
 さらに、一審被告ニコンは、委託したカウンセラーが各事業所を定期的に巡回し、相談を受けるというトータルヘルス相談制度を設け、熊谷製作所においては毎週木曜日にこの相談の受付を実施していた。

e 一審被告ニコンは、交替制勤務に従事する者に対し、交替制勤務の問題点を指摘し、自己健康維持管理の要ていを示したパンフレット(乙13)を配布していた。

イ 一審被告ニコンは、請負作業者に対しては、雇用主の依頼に基づき、労働安全衛生法及び労働安全衛生規則にのっとり、定期的健康診断を実施し、それに加え、作業者の申出による随時の健康診断も実施しており、勇士に対しても、一審被告アテストからの依頼に基づき、交替制勤務に配属するに当たって平成9年12月に健康診断を実施し、また、平成10年4月及び同年11月に定期健康診断を実施し、その他同年1月には眼科検診を、同年2月には尿検査をそれぞれ実施した。
 勇士に体重減少があったとしても、それが業務上の原因に起因する勇士の健康悪化に基づくものであるか否かは定かではない。また、平成10年4月の健康診断では、勇士に特段の健康異常が発見されなかったことから、そのままの勤務が継続している。勇士は、問診の際に健康異常の申告をしておらず、このことは勇士に健康異常がなかったことの間接事実である。仮に、健康異常があったのであれば、これを申告しないことは自己保健義務違反というべきであり、勇士自身が使用者の負う安全配慮義務の履行を阻害したことになる。

ウ 熊谷製作所では、上司が部下の健康状態に常に留意し、体調不良等の場合には早退させるなどしていた。クリーンルームの照明が顔色の識別を困難にさせるとしても、それだけで健康状態の把握が不可能となるわけではない。

エ 一審原告は、勇士が無断欠勤したことについて何らの措置も取らなかったことが安全配慮義務違反に当たると主張しているが、失当である。無断欠勤は、それのみで精神疾患の発症あるいはこれに基づく自殺の可能性を予見させる事実とは到底いえない。無断欠勤が精神疾患に起因するものであるとの経験則は存在しない。
 また、退職拒否に関する一審原告の主張も失当である。勇士の退職日を平成11年4月15日としたのは、勇士から明確な退職日の申入れがないということであったため、総務担当者が一審被告アテストに同日とすることを打診したまでのことであり、一審被告ニコンが勇士の退職を拒否したり難色を示したりしたことはない。しかし、結局、一審被告ニコンの意向は勇士に伝わらないまま勇士は自殺したのである。

(2)  不法行為構成でも債務不履行構成でも過失責任に変わりはなく、そうであ   
る以上、結果発生の予見可能性があり、予見可能性が生じた時点で結果回避可能性がなければ、責任を問われることはない。法は、決して不可能を強いることはないのである。

ア ところで、労働の過重性の程度に軽重があることは明らかである。一般的な労働者誰もが疾病するような極めて過酷な労働条件の下に就労していたのであれば、そのような過重な労働条件自体を認識し又は認識し得たという事実関係があるとして、そのことによって予見可能性を認めることができる。しかし、労働条件の過重性が比較的低い場合に労働者が発症するか否かは一概にいえることではなく、その当時の医学的知見を前提としてその過重性のみから疾病発症を予見することは不可能であるということは多々ある。換言すれば、当該労働者のぜい弱性により一般的には問題のない、あるいは、極端に過重性を伴わない労働条件・労働環境が過重性を有すると認定されることがあるが、その際には、当該労働者のぜい弱性について使用者において認識し、あるいは、認識できたといえることが必要である。当該労働者の特別のぜい弱性が認識されていない場合には、一般的な労働条件・労働環境の下で就労している労働者が疾病を発症したとしても、使用者(その被用者を含む。)にはそのことについての予見可能性がないため、注意義務違反又は安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は成立し得ないということである。

 したがって、使用者(その被用者を含む。)の予見可能性という問題を考えた場合には、当該労働条件・労働環境が一見明らかに過重であるのか、一般的にそのような労働条件・労働環境の下で就労した場合にその当時の医学的知見に基づき一定の疾病、本件でいえば、うつ病を含む精神疾患が発症するといえるのか否かが検討されなければならない。一見明らかにして過重な労働条件・労働環境でない場合、当該労働者の健康状態をしんしゃくしてその労働者にとって過重であるか否かが判断されなければならない。その際に認識し又は認識すべき対象は当該労働条件・労働環境及び当該労働者の健康状態ということになる。特に、ストレスの強さと固体側の心理面の反応性・ぜい弱性との相対関係によって精神障害が発症するというストレス―ぜい弱性理論に基づいて考える限り、ストレスの強弱と性格傾向のぜい弱性の程度がどのような関係にあるのかを正確に判断しなければ何が原因で当該精神疾患が発症したのか判断することができない。したがって、まずストレス(精神的負荷)の強度が各時点でどのようなものであったかを正確に事実認定する必要がある。
 こうした観点からみた場合、一審原告の主張は労働の過重性の軽重を全く問題にしていない点で明らかに不当である。本件においては、労働条件・労働環境の過重性の程度が低かったから、勇士がその労働条件・労働環境に耐えられないということを使用者あるいは使用者に代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う権限を有する者において認識し、又は認識することができたといえる事実関係が存在することが必要であり、ST又はKKにおいて当該労働条件・労働環境において勇士が健康を害しつつあることを認識し、又は認識することができたという事実関係の存在が必要不可欠となる。
 
 しかしながら、勇士が熊谷製作所で稼働する間、健康状態を悪化させたり、そのことの徴表となる労働実態に変化が生じたりしたことは全く認識されておらず、かえって、勇士は、優秀であると認識されて、ソフト検査の実習までも担当するようになったのである。もちろんST及びKK以外の同僚も勇士が健康状態を害しているというような話を聞いたこともなければ、見たこともないという状況であった。
 したがって、仮に勇士が精神疾患を発症したとしても、その可能性を予見することは到底可能とはいえなかったということができる。

イ 仮に、勇士がうつ病にり患し、それによって自殺したとしても、そのことに関して一審被告ニコン(その被用者を含む。)に注意義務違反又は安全配慮義務違反を認めるには、その前提として、一審被告ニコン(その被用者を含む。)が勇士の健康状態が悪化していることを認識し、勇士がうつ病を発症し、衝動的、突発的に自殺することを予見しながら、その負担を軽減させるための措置を取らなかったという結果回避義務違反が必要であり、うつ病を発症し得るに足りる業務上の著しい強度の心理的負荷があることを認識していたというだけでは足りない。
 しかし、勇士から上司及び同僚の誰に対しても一切体調不良等の訴えがない中で、一審被告ニコン(その被用者を含む。)が勇士の健康悪化を容易に認識し得た状況には全くなかった。また、勇士と同様の労働条件や労働環境で就労している者で精神疾患を発症して自殺した者はいない。交替制勤務も勤務者の負担の少ないようにすることを検討した上で導入しており、クリーンルームも合法的な労働環境であって、このような労働環境が就労者の精神的肉体的健康を害するなどと予測することはできない。


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