『控訴審・判決全文』


―判決(60頁・後6行〜70頁)―


(3) 一審原告は、一審被告ニコン自体の不法行為責任を主張しているが、法人自体に民法709条の適用はないというべきであるし、仮にこれがあるとしても、企業に属する多数の個人の行為が複合して、ひとつの法人の行為として社会的に評価され、その行為主体が個々の従業員各員を超えた独立の社会的作用を担っている法人であると観念される場合に限られるというべきである。本件において、一審被告ニコンに法人としてのひとつの行為があると評価すべき事実関係は存在しないというべきであり、一審被告ニコンに不法行為責任を認めることはできない。

(一審被告アテスト)
(1) 一審被告アテストにおける勇士の労務管理は、入社時から平成10年初めころまでHG.Kが、その後平成10年12月10日まではSHが、その後はSNが行っていた。
  SNは、勇士から平成11年2月末で退職したいとの希望が出されたため、規定上2週間前の申出が原則であり、同月末の退職は難しいという話をしたにすぎない。勇士から書面による退職届等は提出されておらず、退職届等の受理を拒んだ事実はない。
  また、SNは、平成11年3月3日ころまで勇士の無断欠勤を把握しておらず、同月10日、一審原告からの問い合わせがあったため、本件居室を訪問し、遺体を発見したことは認める。SNは、同月3日と5日に本件居室に電話し、留守番電話に伝言を残したが、勇士から折り返しの電話はなかったものの、勇士の心身面に不安を感じるべき事情もなかったため、普通に働いているものと思っていた。

(2)  従業員がうつ病にり患し、自殺という結果が生じた場合、使用者の予見可能性として、従業員がうつ病にり患する可能性で足りるのか、うつ病により自殺する可能性までの予見を要するのかが問題となるが、使用者責任も安全配慮義務違反もいずれも結果に対する過失責任を問うものである以上、結果に対する具体的予見可能性、すなわち、うつ病により自殺する可能性までの予見が必要であるというべきである。
  この点、従業員からうつ病り患の申告があった場合や明らかに異常な言動が認められた場合であれば、うつ病り患という事実を介在事情として、自殺に対する具体的予見可能性を認めることができる。また、そのような介在事情が認められない場合であっても、常軌を逸した長時間労働など、業務そのものが平均的一般人をしてうつ病発症をもたらすほどの危険を有する過重なものであったならば、業務に内在するうつ病発症の危険性を介在事情として、自殺に対する具体的予見可能性を問うことが可能である。
  しかし、本件では、常軌を逸した過重労働は存在せず、業務に内在する危険性を根拠に予見可能性を論じることはできない。勇士から一審被告アテストやその代理監督者に対して睡眠障害等の症状が訴えられた事実や一審被告アテストやその代理監督者が精神疾患を疑うべき異常な言動を認識していた事実もないのである。一審原告は、SNが勇士の異常を認識していたかのように主張しているが、SNの陳述からそのような事実は認められない。

(3) なお、一審原告は、平成17年10月31日付け第3準備書面において初めて債務不履行構成に基づく予備的請求をしたのであり、同書面は平成18年2月23日の当審第3回口頭弁論期日において陳述されたものであるから、同請求における附帯請求の起算日は同日というべきである。

損害額(争点3)
(一審原告)
(1) 葬儀関係費用 150万円
  勇士の葬儀は、一審原告の住所地から遠く離れた東京都内で行われ、領収書による証拠化が困難な供養料等の支弁を要したのであり、また、葬儀及び様々な法事に当たり交通費も必要となった。これらによれば、一般的な葬儀関係費用額である150万円が認められるべきである。
  この葬儀関係費用は「通常生ずべき損害」(民法416条1項)に該当するものであり、債務不履行構成の場合にも、一審被告らの安全配慮義務違反と相当因果関係を有する損害である。

(2) 逸失利益 1億0021万3904円
ア 勇士は、死亡当時、23歳の独身の男性であり、就労可能年数は、67歳までの44年間であった。

イ 基礎収入については、我が国でも難易度の高い東京都立大学(現在の首都大学)の工学部電気工学科に進学し、卒業を間近に控えた大学4年生の秋に中退しており、取得した27単位のうち9単位を除いていずれも成績は優であったこと、熊谷製作所においても勇士の優秀さは高く評価され、一審被告らの関係者も勇士の優秀さを認めていること、今日の企業社会では能力主義が一般的に採用され、特に技術的専門的業務に従事する者については大学卒業資格の有無よりも能力が重視される傾向が強いこと、勇士が実際に得ていた収入は少なくとも年441万6132円であり、平成11年度賃金構造基本統計調査による23歳大卒男子の平均賃金を100万円以上も上回っていることなどにかんがみれば、勇士の賃金獲得能力は我が国における平均的な大卒男子の水準を下回るものではなかったことが明白である。したがって、勇士が将来において得ることができた蓋然性の高い賃金構造基本統計調査による大卒男子の平均賃金が基礎収入とされるべきであり、少なくとも男子全学歴計の平均賃金が基礎収入とされるべきである。

ウ 控除すべき中間利息は、法定利率とすることは理論的・経済論的に合理性がなく、金員の期待運用利回りという観点から決定すべきであることから年2%とするのが相当であり、そのライプニッツ係数は29.07996である。
  仮に、年5%の割合による中間利息控除をするのであれば、その控除方法は複利式のライプニッツ方式ではなく、単利式のホフマン方式によるべきである。最高裁平成17年6月14日第三小法廷判決・民集59巻5号983頁は、逸失利益算定の場合の中間利息控除を年5%の法定利率によるべきと判示するに当たり、民事執行法88条2項、破産法99条1項2号、民事再生法87条1項1号・2号、会社更生法136条1項1号・2号等を引き、これらの規定を類推適用又はその趣旨を援用しているが、これらの倒産法規定による中間利息控除は単利式によることとされているから、中間利息控除を法律解釈の問題として年5%の法定利率によることとするのであれば、中間利息の控除方法も単利式のホフマン方式によらなければ理論的整合性を保つことができないというべきである。

エ 以上により、生活費控除率を50%とすると、勇士の逸失利益は次の算式のとおり1億0021万3904円となる。
(算式) 6,892,300×(1-0.5)×29.07996=100,213,904(小数点以下切り捨て)

(3) 死亡慰謝料 3000万円
  勇士は、23歳という若年で親を残して死亡するに至ったのであり、その無念は計り知れない。また、一審被告らは、職業安定法及び労働者派遣法に違反する偽装請負、ヤミ派遣を行っていたのであり、その悪質性は高く、勇士が余儀なくされていた過重労働による肉体的・精神的苦痛は著しいものがあったというべきである。さらに、一審被告らは、今日に至るも一審原告に何の謝罪もしていないばかりか、勇士の自殺の原因を知りたいという一審原告に対して勇士の労働時間の開示すら拒否し、本件訴訟に先立つ民事調停手続には一審被告ニコンは出頭すらせず、本件訴訟では、自らの責任を否定するばかりか、勇士の死の責任を一審原告などに転嫁しようとして、勇士や一審原告などの人格をおとしめている。これらのことからすれば、勇士の死亡に対する慰謝料は、一審原告固有のものを含めて、3000万円とするのが相当である。

(4) 弁護士費用 1314万1390円
  今日の民事訴訟において、しろうとが弁護士に委任せずに訴訟上の攻撃防御方法を尽くし自らの利益を守ることは困難であり、実際上、弁護士を代理人として訴訟追行するのが通常である。特に、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求訴訟は、主張及び証拠収集等の面で貸金返還訴訟等とは異なる困難さがあるから、しろうとが弁護士に委任しないまま訴訟追行することは事実上不可能であり、この点は、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟と何ら変わるところはない。したがって、債務不履行構成の場合においても、弁護士費用は「通常生ずべき損害」(民法416条1項)に該当するものとして、一審被告らの安全配慮義務違反と相当因果関係を有する損害というべきである。

(一審被告ら)
  逸失利益における控除すべき中間利息は、民法所定の法定利率5%によるべきである。

(一審被告ニコン)
(1) 葬儀費用として支出されたのは、丙第16号証によれば45万8565円にすぎない。
(2) 逸失利益の基礎収入は、勇士が自殺直前に得ていた年収441万6132円とすべきである。

(一審被告アテスト)
(1) 証拠によれば、勇士の葬儀費用として支出されたのは41万4985円にすぎない。また、遺族が支出した葬儀費用や弁護士費用は遺族固有の損害であり、安全配慮義務違反(債務不履行)の場合に、当事者ではない遺族の損害まで責任を問うことはできない。
(2) 逸失利益の基礎収入は、勇士の学歴が大学4年中退であることからすると、高専・短大卒男子の平均年収を前提にすべきである。

責任の阻却、過失相殺、いわゆる素因減額等の当否(争点4)
(一審被告ニコン)
  労働者は、自己の生活を規律し、休養を完全に取り、労働の疲労を回復し、心身共に完全な労務の提供ができるように自己自身の健康管理義務があり、また、使用者の行う健康管理措置に協力し、所定事項を遵守する義務を負う。疾病は素因、基礎疾患、既存疾病といった要因と内外の諸因子が組み合わせられ、いくつかの原因が重なって発症するものであり、労働者自身という固体側の要因も極めて重要なウエイトを占めている。使用者は、労働者の素因等を完全に把握することができるわけではなく、健康障害の事前兆候たる自覚症状等も本人でなければ分からないという制約がある。そのため、労働者は、自ら適切に自己の健康状態を把握し、それに応じた方法で健康維持を図らなければ健康管理に万全を期すことができない。労働者の健康管理は労働者自身の自己保健によらなければ実行できないのである。労働者は、労働契約上の義務として自己保健義務を負い、労働者が私生活において健康状態の悪化を招来させ、労働契約上の債務の本旨に沿った労務の提供に支障を生じさせることは、この自己保健義務に違反するということができる。

 一審原告の主張どおりであれば、勇士は、体調不良があるにもかかわらずこれを訴えることなく就労を継続したことになるが、これは使用者が負う安全配慮義務と裏腹の関係で労働者が負っている自己保健義務に違反する対応であり、この対応のゆえに使用者において適切な措置を取り得なかったのであるから、一審被告ニコンの責任は阻却されるか、大幅に減殺されるべきである。

(一審被告アテスト)
(1) 既に主張したとおり、勇士の自殺の主たる原因は、親族らによる金銭さく取という事情にあり、そのことに加え、資格試験の受験勉強が勇士にとって相当程度の心理的負担となったものである。仮に、一審被告アテストの責任が認められるとしても、これらの事情から大幅な過失相殺をすべきである。

(2) 一審原告ら勇士の親族は、勇士の身体的変調を認識していたにもかかわらず、勇士に受診を勧めることをしていないばかりか、勇士の寮を訪れたり、勇士に休暇取得を勧めたりもしていない。そして、勇士自身も、身体的変調を来していたにもかかわらず、何ら医療機関を受診していないから、これらの事情は被害者側の過失として十分にしんしゃくされるべきである。

(3) 勇士のうつ病発症から自殺までは比較的短期間であり、一審被告アテストの結果回避可能性はきん少であった。他方において、一審原告は、勇士の体調悪化等を十分認識していたはずであることと比較しても、この事情は過失相殺をすべき事由である。

(4) 勇士は、執着性格といったストレスぜい弱性を有していたため、通常の労働者であれば精神障害を発症しない程度の心理的負担によってうつ病を発症したと考えるのが相当である。常軌を逸した長時間労働が認められ、労働者の個性の多様性が問題とならない事案と異なり、一見して過重な業務が存在しない本件においては、労働者の個性の多様性を実質的に検討した上で使用者の責任の程度が検討されるべきであり、勇士のこのストレスぜい弱性に応じて素因減額が行われるべきである。

(5) 次のとおり、一審原告の本件訴訟提起及び追行には極めて不可解な点があり、これらは一審原告の信義則違反又は証明妨害と評価せざるを得ないから、一審被告アテストの責任は否定されるか、軽減されるべきである。

ア 一審原告は、勇士の自殺について労働者災害補償保険の申請をしていない。
イ 一審原告は、一方では、平成10年の年末から平成11年の年始の時期に勇士の体調が極めて不良であったと強調しながら、他方において、そうした事実を認識していたというのに何の措置も講じなかった点について、そんなに重大な状況にあると思わなかったといった前後矛盾する主張あるいは陳述及び供述を繰り広げている。

ウ 一審原告は、平成18年2月22日付け第7準備書面を提出する以前は、容易に連絡を取ることができたHIの所在不明、連絡不能を理由として、保存行為であるから勇士の損害賠償請求権のすべてを一審原告が行使できるという独自の主張に固執していた。ところが、同書面を提出するに至って、遺産分割協議により損害賠償請求権のすべてを単独で行使できるとの主張に改めたが、一審被告アテストの再三にわたる求釈明にもかかわらず、なぜHIと突然連絡を取ることができたのか、勇士の死亡後8年近くも経過した時点でなぜHIが遺産分割協議に応じたのか、及びなぜ勇士の損害賠償請求権のすべてを一審原告が単独取得することにHIが同意したのかといった点について説得力のある説明をしていない。

エ 一審原告は、勇士の遺書が電子データとして格納されていたものと推測される勇士のパソコンについて、勇士がパソコン操作に習熟せず、日記などは一切なかったと主張する一方で、当該パソコンは勇士の弟の上段寧実(以下「寧実」という。)がもらい受けて使ったが、平成11年7月ころハードディスクの調子がおかしくなったため、オペレーションソフトを再インストールしたことに伴い、従前のデータはすべて消去されたと弁解し、データ回復ソフトを用いて消去データの読み出しを試みさせてほしいと一審被告アテストが申し出ると、今度は当該パソコンは●●●(※職業、割愛)である寧実が仕事用にも使用しており守秘義務との関係でパソコンの提出等には応じられないなどと、到底信用できない弁解をし、現在に至るも当該パソコンの提示すらしていない。

(一審原告)
(1) 我が国において、労働者、とりわけ勇士のように法的身分保障の弱い非正規雇用労働者が自らの心身の健康を使用者に申告した場合、解雇や雇止めを含む不利益な取扱いがしばしばされるところであり、そうした申告をすることは職を失い、生活の糧を奪われる危険を冒すことにほかならないこと、勇士のように精神疾患にり患したものは、自らの健康状態の悪化を自覚することが困難であるのが通常であること、一審被告らの側にこそ、労働安全衛生法に反して法定の定期健康診断を実施しなかった違法により勇士の健康異常を発見する機会を逸したという極めて大きな落ち度があることなどにかんがみれば、勇士が自ら健康異常を申し出なかったことが過失相殺事由となることはない。

(2) また、勇士の性格はまじめできちょうめんであったが、このような性格は、同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものとはいえず、損害額を減額する理由にはならない。

(3) さらに、何らの法的な根拠もなく、抽象的に公平の見地からとして損害賠償額の減額をすることに何らの正当性もないし、本件においてそのような見地から減額をすることを相当とすべき事情も存しない。

(4) 一審被告アテストの信義則違反の主張は失当である。HIと一審原告はHIの金銭関係が原因で離婚し、かつ、HIは、子の養育義務を果たさなかったのであり、そのような事情がある中で、HIが一審原告と音信不通となり、勇士の死亡や本件訴訟の存在を長い間知らなかったとしても何ら不自然ではない。また、離婚以降、借金を抱えたHIが実際の住居と住民票を一致させなかったことも不自然とはいえない。

消滅時効の成否(争点5)
(一審被告ニコン)
  本件訴求債権のうち、一審原告が遺産分割協議によりHIから取得した相続分については、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年を経過した後の請求であるため、時効により消滅している。
  一審原告は、マスコミ等で本件に関する宣伝活動を繰り広げてきたのであるから、HIが本件訴訟提起の初期段階から本件について知っていたことは明らかである。

(一審被告アテスト)
  勇士が一審被告アテストに対して有していた損害賠償請求権は可分債権であるから、勇士の相続開始と同時にHIがその相続分に応じてこれを取得した。そして、HIは、遅くとも一審原告とHIの遺産分割協議日の3年前の対応日の前日である平成15年2月19日までに、勇士がその業務に起因して自殺したことを知っていたから、平成18年2月19日の経過により、不法行為及び使用者責任に基づく損害賠償請求権のうちHI相続分は時効によって消滅した。
  一審原告は、勇士の死亡以前からHIの実家の住所及び電話番号を知っていた。また、一審原告は、勇士の死亡が判明した平成11年3月10日から遅くともHIが実家に帰ってその母親から勇士の死亡の事実を聞いたという平成12年9月25日までの間に、HIの実家に架電する等してHIの母親に勇士の死亡を知らせていた。

 他方、一審原告の主張によれば、HIは、平成11年5月以降、住民票を実家に移すつもりであったし、実際に平成12年9月25日に実家に帰り、同月27日に転入届出も提出している。HIは、平成11年5月以降、実家の母親と連絡を取っており、その間に母親を通じて勇士の死亡を知ったはずであり、一審原告は、HIの母親を通じて、HIと連絡を取ることができていた。そして、一審原告は、同年6月22日に訴訟代理人に法律相談をし、同年10月13日に民事調停を申し立て、平成12年7月18日に本件訴訟を提起している。訴え提起の当初から、一審被告らは保存行為を理由とする一審原告による勇士の損害賠償請求権の単独行使の主張を争っており、一審原告は、この主張が認められない場合に備えてHIと連絡を取り、本件訴訟提起を伝えていたはずである。しかるに、一審原告は、平成18年2月22日に至るまで、HIの所在が不明であるとする主張立証に終始してきた。これらによれば、遅くとも、HIが実家に帰った平成12年9月25日には勇士から相続した損害賠償請求権についてその損害及び加害者を知ったから、平成15年9月25日の経過をもってこの請求権の消滅時効が完成した。仮に、平成12年9月25日の時点でHIがこれらの点を知らなかったとしても、遅くとも平成15年2月19日までにはこれらの点を知ったことは明らかというべきである。


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